店長のひとりごと店長村岡が綴る日々雑感
店長のひとりごと/プロフィール編 2006/11/1
今月の“ひとりごと”はちょっと趣向を変えて私、店長村岡のプロフィールを皆様に公開します!だんだんと思い出しながら書いているうちに熱くなってしまって・・・(;´Д`) まぁ、ざっとひととおり見てください。
■昭和39年10月
鹿児島市で村岡家三男として生まれる
■昭和46年3月
唐湊幼稚園 卒園
あの長渕剛さん、辛島美登里さんも通った幼稚園で当時から音楽に力をいれていた。私もこのころピアノを習っていたらしいが憶えていません。(;´Д`)
■昭和52年3月 中郡小学校 卒業
勿論、長渕さん、辛島さんも通っていた。(長渕さんは途中転校した)私の2番目の兄は辛島 さんと同じクラスメイトになったことも・・・。他に衆議院議員の川内博史さんも一緒だったとか。私は2年生まで体も大きく「力太郎」と呼ばれており、相撲 が得意だった(得意技:十円投げ)しかし、それから背が伸びない・・・。そして4年生で何故か担任の先生のすすめで鼓笛隊に入り、コルネットを吹いてい た。
■昭和55年3月 鴨池中学校 卒業
この頃、私は身長も低くあまり目立つ存在でなかった。勉強も中ぐらい。何してたかと言われ ると野球を頑張ってた記憶が強い。私が1年生で野球部に入部すると、先輩達から「村岡さんの弟だ!」と、とても注目された。3年上の2番目の兄はこの野球 部でキャプテンを務め、エースを任されていた。そう、私も兄同様、期待されていた。初めのうちは先輩達からも少し特別扱いされた。他の1年のみんなが玉拾 い・声だししている時も先輩から「おい、村岡、キャッチボールの相手をしてくれ」「おい、村岡、○○してくれ」と期待されながら・・・。
しかし、そのうち私の実力が兄と違う事(全く普通)がわかり始めると次第に声を掛けてくる先輩もいなくなった。。ちょっと残念・・・_| ̄|○
ただ、その私も中学2年の時、兄の影響で一時的によく勉強する時期があった、そしてその時 の成績の伸びは今でもよく憶えている。テストでも学年280人中、今まで130番ぐらいだったのが半年ぐらいで50番台までになった。さすがに嬉しくて、 もっと上をめざしてみようとも思ったがやっぱり勉強は好きでなかったし、そう長続きするものでもなかった・・・。(成績はまたすぐに元にもどりまし た・・・)
また、中学3年のマラソン大会の前、何故か近所の森田君と2~3ヶ月、毎朝ランニングをし ていた。(森田くんは2年のマラソン大会では10番前後だった)勿論、練習開始の頃は森田君が私の遅いペースに付き合ってくれていた、しかし、序々に変化 が・・・。3年のマラソン大会当日、最初からトップ集団で走っている自分がいた。トップ集団でもあまりきつくなかった。最終的に13番だったかな?(前年 の100番台からは想像できない成績だった。) このとき、一時的でも継続する大切さを知った。
■昭和58年3月
県立鹿児島工業高校 卒業
今年(2006年)の甲子園ベスト4で一躍有名になった高校です。中学時代、野球部でレ ギュラーになれなかった私はやっぱりレギュラーになりたい!と、強く思っていた。しかし、中学よりずっとレベルの高い高校野球部ではそれは無理と考え、以 前から好きだったサッカー部への入部を決意。実は高校入学前からそれは考えていて、近所に住むサッカー部の友人、村田君と夜、よくスーパーアポロの駐車場 で練習をしていた。練習の後も二人で高校に入ってからの希望や夢を熱く語っていた覚えがある。しか~し、いざ、高校に入ってサッカー部のメンバーを見ると これが凄かった。各、中学サッカー部のキャプテンクラスが集まっていて、とても私の入る隙間などない・・・。(本当に当時のメンバーすごくて確か県の一年 生大会では優勝していたはずだ。)私はこのメンバーにビビッて何故かハンドボール部に入っていた。ただクラスの友人に誘われて入部したがその友達は一週間 で簡単に辞めてしまった。ハンドボールの練習はきつかった。始めは走ることばっかり。20人から30人いた新入部員は一週間で半分に減った。でも中学の野 球部で厳しい練習をしていた私はこのぐらいでヘバる事は無かった。
そして先輩たちのボールさばき、フェイントの巧みさ、色んな形のシュートのカッコよさ。勿 論、1年の時は走ったり、玉拾いしたり、雑用が多く、シュート練習などあまり出来なかった。早く上手になりたい私は、全体練習が終わってから気のあった友 達、奄地君とよくシュートの練習をしていた。それが功を奏したのか2年で念願の半レギュラーになれた。3年でのインターハイは鹿児島で行われ、その時の県 予選では残念ながら準優勝に甘んじた。でも鹿児島開催の全国総体だったので2位ながら全国大会に参加できた。九州国体のメンバーにも選ばれた。
このように高校では勉強はせず、部活動に明け暮れていた。
■昭和58年4月 ○建調査設計株式会社入社
建設コンサルタントとして西日本では有名だった。当時社員数600名程度。 ここで私は本 社(広島)第3設計部港湾設計課に配属され、港の防波堤・護岸などの基本設計をしていた。途中、プログラムの開発にも取り組んだ。入社当時、私の課は残業 も少なく、利益も上がっていて先輩達にも恵まれていた。他の同期入社の友達がうらやむ課だった。 ・・・が、2年後、課長が変わった途端に急変。一気にと てつもなく忙しい課となった。営業部でもないのにこの課長は自分で仕事を取るとる・・・。
平穏な課が一気に社内一のハードな課に変わった。ずっと下っ端だった私は常に忙しい班に回 され、いつも深夜まで残業・徹夜も何度したことか・・・・。月の残業時間が軽く200時間を越え全社員の中、残業ワースト1位に選ばれてしまった。。 こ んなに頑張っているのに何故にワーストなの??
疑問はあったがそんな事はどうでもよかった。夜中にコンビニに夜食を買ったり、休憩時間に先輩達とする雑談が楽しかった。先輩達の気遣いもあり、あまりイ ヤな印象は無かった。ただ、こうした課があり頑張っている社員達の事をあまり気にしない管理職(それも役員連中)に対してはイラだつ事は多かった。下っ端 の私から見ても下の社員達が胃を痛めながら一生懸命仕事しているのに上の役員達はノホホンとしているイメージがあった。
勿論、私が知らないだけで、するべき事はしていたと思うが、それら色んな気遣いが足りない 気がした。この頃の先輩達はホントよくやっていて、よく私に「胃が痛くなったら一人前だ」と訳のわからん事も言っていた。こんなに忙しかった私だが、当 時、猛烈に仕事をしたイメージはなく、それ以外の活動の方が強く印象に残っている。毎日、昼休みに活動していた合気道部をメインに野球部、サッカー部、バ トミントンにテニス同好会。やっぱりスポーツが好きだった。広島大学主催のフェニックス駅伝も楽しかった。
寮に住んでいた仲間とは深夜まで遊んだ。ある時、夜中あまりにも遠くまでドライブに行き、 朝の出勤時間までに帰って来れなかった事もあった。鹿児島出身という事で飲みに行っても強いと思われドンドン飲まされ、自分も弱いと言われたくないのでト イレで吐いては、また飲んでいた。
私にとってこの会社に入ったのはとてもいい経験になっている。ちょうど4年間、社会勉強を させてくれた大学のようだった。退社の理由で別紙2枚に渡って延々と会社批判を書いたのは私です。でも、この会社が好きだったから、この会社に良くなって もらいたかったから非常識かと思いながら役員の人に解って欲しかった・・・。当時の専務だけは解ってくれたみたいで、この後、社長になって力を発揮してい ました。(昭和62年3月 退社)
■昭和62年4月 有限会社 村岡モータース入社
父が経営する自動車販売・修理の会社。ここで車の販売、板金塗装の助手をする。入社して半年後、ダイワミラクルチェーンの加盟店になり、ポリマーシーク加工を始める。これが私のコーティングの始まりです。
翌年、昭和63年にはT・K・J(タフコートジャパン)加盟店となり、防錆処理のタフコー トを始める、更に翌年、平成元年9月・10月、二度に亘ってスーパーダイエーの店内にてコーティングのデモンストレーションを実施。一気に知名度が上がっ た。平成2年にはダイワミラクルチェーンを脱退し、ポリマーシーク加工からT・K・Jのシステム6加工へ変更する。
この頃、(24歳ぐらい)ロータリークラブの青年部であるローターアクトクラブに入会し、自己の成長の為、地域社会への奉仕活動を通じて色んな人たちと親睦を深める。 また、同じ頃、野球チーム「とんぼ」を結成。身近な友人・昔の仲間達と軟式野球にもはげむ。
■平成3年1月 タフコート鹿児島をオープン
店長村岡の始まりである。
■平成3年6月
法人化、有限会社 タフコート鹿児島となる。途中、デントリペア、カーフィルムなど業務内容も広がる。この頃、友人に誘われスキー・ゴルフをするが時間も無く、これは長続きしない。
■平成14年6月
ボディガラスコーティング“クォーツ”施工開始
■平成14年11月
ホームページ開設
■平成15年7月
店舗を拡大。リニューアルオープンする
■平成17年1月
ボディガラスコーティング“G'zox”施工開始
■そして現在・・・
現在、コーティングを始めて19年経った。コーティング歴だけでは鹿児島でも一番長いは ず・・・沢山の車を磨いた。始めの頃は兄に言われてなんとなくコーティングしていたが、今はお客様のより良いカーライフのお手伝いが出来るよう、常に目的 意識を持って取り組めるようになった。つもり・・・。
これからも、より良い磨き・コーティングを追及し、常にお客様にとっての快適空間となれるように頑張っていきたいと思います。
店長村岡